口内炎 峯 妙介 銀座の和光で誰かと待ち合わせをしているフリをして、2時間近く。 人々は彼女が誰かと待ち合わせをしていると信じて疑わない。 そう思うと嬉しくなってまた1時間。 彼女は暇人ではない。むしろ忙しいのである。なにしろフリをしているのだ。これ以上忙しいことがあるわけがない。 ここで風呂に入っていたとしたら誰も待ち合わせをしているとは思わないのである。 『登別カルルス』に入っていたらなおさらのこと。 「羨ましい……あの色は確かにカルピス色だが本当にカルルスなのだろうか、だとしたら一口飲んで確かめたい」 とは思っても、まさか待ち合わせをしているなんて微塵も思わないのである。 まあ、風呂には入っていないが風呂に入れるような準備はしてある。素っ裸なのだ。 あーいやいや、根が地味な彼女は素っ裸だと注目を浴びてしまうことを恐れ、最高級キリンの毛皮を身にまとっている。しかしこのところ動物愛護のヤロウどもが彼女をマークしているということもあり、せっかくのクリームアンドブラウンの美しい色彩も、黒のスプレーでシューとやってただのブラックアンドブラックになってしまったことは少々悔やまれるが、だれもキリンだとは思うまい。 「しかし黒豹だと思われたらヤだな」 などとは思わないところが彼女のポジティブな生き方につながっているのである。 それにしてもこのコートはさすが最高級だけあって暖かい。少し汗ばんで腋臭と若干キリンの匂いが強くなったことでそのことは十分証明されている。 「キリンの匂いに敏感な人がいたらヤだな。とくに上野動物園のアリクイの飼育係なんかが」 と心配してしまうのは、彼女は現在、病に侵されているからであろう。そのために大好物の「まあーるくってちーちゃくってさんかくー」と言うわけのわからないうたい文句を持つ『いちごみるく』でさえ口にすることができずに日に日に衰弱しているのである。 ここだけの話しだが病名、口内炎。 たかが口内炎、されど口内炎。今ではおよそ二百五十三個の口内炎が口の中を占拠し、ビラを撒き、ストライキ状態に入っているのである。 しかし彼女は人を待っているフリをしながら、キリンのコートを着ていないふりをしつつ、口内炎ではないフリをしているという誠に器用なキテレツ人間なのであった。 口内炎ではないフリ、それは知力・演技力・度胸ともに難易度100のこの世に存在するモノの中では最高級のフリであった。 最高級のフリは5分置きに行なわれる。 キリンコートのポケットからおもむろに丸大豆醤油一リットルのボトルを取りだすとその赤いフタに醤油を注ぎ、柿ピーをつまみにちびちびと飲む。 そのたびに醤油は二百五十三個の口内炎をピンボールのように次々に刺激し、和光の時計台まで素っ飛びそうな口中の痛みを押さえつつ 「あらさすが丸大豆だわ、大豆が生きてるわ、やっぱり四角大豆とは一味ちがうわ、んー三角大豆ともまろやかさが違うわね」 などと平然と言ってのけなければならないのであった。 痛い。確かに痛い。 しかしその甲斐あって誰も彼女の口中を、口内炎が占拠しているとは思わないところが唯一の救いであった。 その後の彼女は吉本商業にスカウトされフリのエキスパートとして世界中の脚光を浴びると思ったらおお間違いで、ゼブラ模様の未確認飛行物体に拉致され、宇宙発の醤油ソムリエとして育成、後世に名を残すこととなるのであると言うよりも、口内炎撲滅運動家として都庁のエレベーター内でビラをまき散らし警視庁とのイタチごっこの毎日を心底エンジョイしているのであった。 作・峯妙介
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